2年半ぶりにHey!Say!JUMPのコンサートへ足を運んだ。前回見たのは2012年5月で「Hey!Say!JUMP ASIA FIRST TOUR 2012」と題された公演だった。その後にも舞台「JOHNNYS' World」やその延長線上にあった「JOHNNYS' Worldの感謝祭 in DOME TOKYO・OSAKA」には足を運んでいたが、純粋な彼らの単独コンサートへ足を運んだのはおよそ2年半ぶりだった。このブログには当時の記録は残っていないが、今回の記事の本題に入る前に、前提として私の過去を紹介しておくならば、私は2008年の秋から2011年の夏までHey!Say!JUMPのことを主に応援していた時期があり、彼らのコンサートや舞台にも40公演程足を運んでいる。Hey!Say!JUMPだけで40公演も足を運んでいたのかよ、と今改めて数えてみて自分でも驚いているが、恐らく同じグループの公演にこれだけ足を運ぶことは今後ないと思うので、きっとHey!Say!JUMPが今後も私の最多記録を維持し続けると思う。当時は最年少の森本龍太郎くんの事を応援していたのだが、2011年夏に無期限謹慎処分がくだされて以降、以前と同じモチベーションでJUMPと向き合う事ができなくなり、また自分自身も生活の場が東京から地方へ移ったことも相まって、Hey!Say!JUMPのツアースケジュールと自分のスケジュールが上手く合わずにいた、というのが2年半も離れていた理由である。
そんなところにようやく自分の遠征予定とJUMPの公演が重なり、久しぶりに彼らの公演を見る機会が巡って来た。この2年半の間、Hey!Say!JUMPにも様々な環境の変化があり、SMAPやキスマイと同じ飯島班に居たのが、TOKIOや嵐と同じジュリー班に移り、ほとんどのメンバーにバラエティやドラマのチャンスが巡って来るようになった。またこれまでは歌割りにも偏りがあったが全員にソロパートが与えられるようになり、“改革”と呼ぶべき光が差し込んだイメージがある。というのも、先程私が彼らの公演に40回足を運んだと述べたが、けして全ステ派ではない私が40回も足を運ぶ程の公演回数を彼らはこれまでひたすら稼いでいたのである。春、夏、秋、冬、と季節ごとにコンサートを開き、そのコンサートが千秋楽を迎える頃にはまた次のシーズンのコンサートが発表される、まるで鼬ごっこの様に終われば始まるからくりの中に彼らはずっと置かれていた。年間のステージ量で言えば、他のグループを圧倒的に引き離して、彼らに軍杯が上がる、メディアに出演することよりもCDをリリースすることよりも何よりも、ステージに立ち続けて来た、というのが彼らのデビューからの5年間だった。
今回の公演が終わった翌日、私はTwitterに酷評を書き込んだ。普段は少し疑問に思うことがあっても、良い点を並べて書くことでその部分に対する気持ちを埋めていき、またそれに対して純粋に楽しんだ人たちがいる限り、そこに自ら水を差す必要も権利も自分にはないと思ってそうしていた。しかし今回のコンサートは全体的に評価されていない風潮があり、私も入る前に友人の伊野尾担から「いつものJUMPコンだよ」と聞かされていた。この「いつものJUMPコン」という言葉は、JUMPのファンの間でも常套句の様に使われている印象があり、「いつも通りのJUMPコンで楽しかった」ではなく「いつも通りのJUMPコンでつまらなかった」というネガティブな意味合いが強い。他のグループのコンサートでこんな表現が蔓延している様子はあまり見た事がないので、これは彼らのステージを幾度となく目にしてきたファン自身も、コンサートを受信する側としての経験値を積んでいる証拠なのではと思っている。これまで幾多のステージに立ち続けてきて生まれた「既視感」と、JUMP自身もファンも決着をつけなければならないように感じる。
では「いつものJUMPコン」と言うけれど、そもそもHey!Say!JUMPのコンサートに居座り続ける「既視感」とは何なのか。今回は3枚目のアルバム「smart」を引っさげたツアーであり、またHey!Say!JUMPとしても久しぶりのコンサートツアーとなった。アルバム「smart」は楽曲も粒揃いで、この楽曲を持ってしてつまらないコンサートをつくる方が難しいのではと思わせる内容だった。また前回のコンサート以降に発売されたシングルも、「ウィークエンダー」をはじめ盛り上がること間違いなしの良楽曲が控えていた。最高級の「真新しさ」を提供する材料は充分に整っていたはずだった。しかし蓋を開けてみたら勿論新しい曲も存分に披露して魅せてくれたのだが、ところどころに何故今ここでこの曲をやろうと思ったのか動機不明の既存曲が間に挟まれ、「真新しさ」と「既視感」が喧嘩して「既視感」が勝ったというような状態になってしまっていた。これが今回のコンサートも「いつものJUMPコン」という言葉に集約されてしまった原因なのではないかと感じる。
また他のグループがアルバムを引っさげてツアーをする際、ステージセットにもセトリにも衣装にも特効にもあらゆるところに一貫した「テーマ」が備わっていて、その「テーマ」を軸にコンサートを進行していく事が多いのだが、今回のJUMPのコンサートには何処にも信念となる「テーマ」が転がっていない様に見えた。そもそもコンサートをつくる際は、この「テーマ」からスタートして、セトリを考え衣装を考えパフォーマンスを考え、自分たちで「テーマ」に肉付け作業をしていくと思われるのだが、JUMPが今回のコンサートを通して伝えたいメッセージを私はキャッチすることが出来なかった。むしろ何も伝えないことが「テーマ」だったのかもしれない、考えるな感じろ、ってことかと色々考えたりもしたけれど、「smart」というアルバムタイトルを使っていながら、それは全然スマートな発想ではないなと思った。
けれども私はHey!Say!JUMPというグループが何かにこだわり続ける頑固さを持ったグループだとは到底思えず、むしろ何にでも色を変えることが出来る素直さや柔軟さを備えていると思っているので、彼らのコンサートはいくらでも良い方向に変わる可能性を秘めていると思っている。人数が多い分、誰か一人の革命的な意見もリスクを案じて過半数が賛成しなければ却下しているのかもしれないし、そもそもジャニーズ事務所で一番メンバー数の多い9人という人数なので、それぞれの意志を尊重したものを作り上げることの難しさは計り知れない。各々のやりたいことを中和した結果が「既視感」を生み出しているのかもしれないし、何が根本的な原因となっているのかは分からないが、彼らが提供してくる「真新しさ」を敏感に感じ取れなくなっている自分自身にも勿論反省要素はある。
絶望はしていない。むしろまだ発展途上である彼らには希望しか残されていない。角度を変えれば最高だと捉えることもいくらでも出来る気がしているけれど、まだ彼らを最高という場所に置きたくない、と書いたところでHey!Say!JUMPのことを如何に自分が特別に感じているのか実感出来た。特別なグループには誠実に向き合いたい。彼らが描く未来にはまだ期待する余地がある。