会社が大きくなるほど、真実が見えなくなる――小川哲『オルロージュ』

小川哲の長編小説『オルロージュ』が、とにかく面白かった。読み始めたときと読み終えたときでは、面白いと感じる部分がまるで違っていたのが印象的だ。前半は圧倒的な才能を持つ人間が世界を変えていくことへの興奮があり、後半はその人間が作り上げた世界の実態がわからなくなっていくことへのもどかしさがある。ひとつの小説の中で、異なる種類の面白さが味わえる。

物語の中心となるのは、世界一のお金持ちになることを夢見る桐田奈南と、研究者の倉敷秀斗。ふたりは「光合成をするコンクリート」という技術を事業化するために、オルロージュという会社を立ち上げる。仲間を集め、投資家から資金を調達し、事業を拡大させていく。いわゆるスタートアップ企業の創業から成長までを描いた物語だが、その過程で次々と起こる出来事がとにかく刺激的だ。

何より前半の牽引力になっているのが、桐田奈南という女性の存在である。私はとにかく、この桐田という女に惚れ込んでしまった。彼女は圧倒的な行動力と、それを裏打ちする発想力を持っている。何かを成し遂げたいと思ったとき、普通の人間であれば実現するための方法を考え、その難しさに直面し諦めてしまうようなことでも、彼女はまったく別の角度から突破口を見つけ出してしまう。

象徴的なのが、世界一の投資家と話をするために、わざわざ海外行きの飛行機に乗り、その人物の隣の席を確保する場面である。世界一の投資家と直接話す機会など、そう簡単に得られるものではない。何とかして人脈を辿るか、アポイントを取ろうとするか、そもそも自分には無理だと諦めてしまうかもしれない。ところが桐田は、相手と話ができる状況そのものを自分で作り出してしまう。この発想がとにかく面白い。そもそも飛行機の隣の席に座るという選択肢が思い浮かばないし、仮に思い浮かんだとしても、実際にそれを行動に移せる人間がどれほどいるだろうか。しかも、隣に座れたからといって話を聞いてもらえる保証などどこにもない。それでも彼女は、自分の目的を達成するために、普通の人間が考えもしないような方法を思いつき、それを実行してしまう。私はこのエピソードで桐田にグッと引き込まれた。

世の中には、能力がある人間も、努力ができる人間もたくさんいる。けれど、誰も思いつかないような方法で道を切り拓き、さらにそれを実現するだけの行動力まで持ち合わせている人間は、そう多くない。桐田のすごさは、単に大胆なことをするところではない。目的に対して、何が可能で何が不可能なのかを、私たちとはまったく違う基準で判断しているように見えるところだ。私たちが無意識のうちに設定している限界を、彼女は最初から制約として認識していないのかもしれない。
だからこそ、彼女が次に何をするのかが気になって仕方がなかった。次はどんな方法で、どんな不可能を可能にしてしまうのだろう。桐田が動けば、物語も、彼女を取り巻く世界も動いていく。その勢いにすっかり魅了されながら、前半を読み進めていた。

ところが、会社が大きくなるにつれて、この小説の様相は少しずつ変わっていく。オルロージュという会社が成長し、組織が巨大化するにつれて、会社の内部で何が起きているのかが見えづらくなっていくのだ。
前半では、桐田や倉敷の行動を間近で見ながら、彼らが会社を立ち上げ、成長させていく過程を追いかけていた。ところが後半になると、物語は次第にふたりから離れた場所にいる人間たちの視点で語られるようになる。これが、読んでいて本当にもどかしかった。いや、もうその人たちの話はいいから、桐田や倉敷本人から話を聞かせてくれ!何度そう思ったことだろう。
私は桐田が何を考えているのか知りたいし、倉敷が今どんな状況に置かれているのかも知りたい。ふたりが立ち上げた会社で一体何が起きているのか、その中心にいる人間たちの言葉を聞きたいのだ。ところが、物語はなかなかそこに連れていってくれない。代わりに私たちが読むことになるのは、会社から離れた場所にいる人間たちの話であり、彼らが知り得る断片的な情報である。どれだけ読み進めても、肝心なところに辿り着けない。

けれど、これこそが会社という組織が大きくなることなのかもしれない。創業したばかりの会社であれば、中心人物が何を考え、何をしているのかを比較的容易に把握できる。ところが会社が成長し、関わる人間が増え、組織が複雑になっていくと、情報は分散し、それぞれが知り得る事実にも差が生まれる。組織の規模が拡大することは、必ずしもその全体像が明瞭になることを意味しない。むしろ、会社の外側にいる人間にとって、その実態を知ることはますます困難になっていく。

この小説では、読者もまた、会社の成長とともにその中心から遠ざけられていく。前半では桐田や倉敷と同じ場所に立っていたはずなのに、後半では彼らが何を考えているのかさえわからなくなる。読者としては、どうにかしてふたりのもとに戻りたいのだけれど、物語はそれを許してくれない。会社の成長によって、読者と創業者の距離まで変わってしまうのである。この構造が本当に面白いと思った。
普通、小説は読み進めるほどに登場人物への理解が深まり、物語の全体像が見えてくるものだと思う。最初はわからなかったことが少しずつわかるようになり、点と点がつながって、ひとつの真実に辿り着く。けれど『オルロージュ』では、読み進めるほどに知りたい人物が遠ざかり、知りたいことがわからなくなっていく。物語が進行することと、読者の理解が深まることが、必ずしも比例しないのである。それなのに、いや、だからこそ、ページをめくる手が止まらない。

考えてみれば、これは現実の企業でも起こりうることなのだろう。私たちは日々、企業のニュースを目にしている。経営者の発言や業績、株価、社員の証言など、さまざまな情報が流れてくる。けれど、それらをどれだけ集めたところで、その企業の内部で実際に何が起きているのかを正確に理解することは難しい。情報には必ず発信者の立場や視点があり、同じ出来事であっても、誰の言葉を通して知るかによって見え方が変わってくる。私たちは企業について多くの情報を知ることができる時代に生きているけれど、情報が増えることと、真実に近づくことは必ずしも同じではないのだと思う。

そして『オルロージュ』の巧みなところは、こうした企業という組織の不透明さを、単に物語のテーマとして描くのではなく、読者自身に体験させているところにある。前半では、桐田たちと一緒に会社を立ち上げ、その成長に興奮していたはずなのに、後半では自分たちが何を見ているのかさえわからなくなっていく。最初は物語の当事者に近い場所にいた読者が、気づけば会社の外側から断片的な情報を集めるしかない立場になっている。企業の成長によって生じる情報の非対称性が、物語の構造そのものに組み込まれているのだ。

前半は、桐田が次に何をするのか知りたくて読んでいた。後半は、桐田が今何をしているのか知りたくて読んでいた。似ているようで、まったく違う。ひとりの天才の行動力に魅了されて始まった読書が、いつの間にか、その天才の姿を追い求める読書に変わっていた。

『オルロージュ』は、起業の面白さを描いた小説であると同時に、組織が成長することの複雑さや、私たちが信じている情報の不確かさを描いた小説でもあるのだと思う。会社が大きくなるほど、社会的な存在感は増していく。それなのに、その中心で何が起きているのかは、かえって見えなくなっていく。企業としての成功と、その実態を理解できることは、まったく別の話なのだ。

小説を読むという行為は、物語の世界について知っていくことだと思っていた。けれど、この小説は、読み進めるほどにわからなくなっていくこともまた、読書の面白さなのだと教えてくれた。そして、読み終えた今もなお、桐田本人からもっとじっくり話を聞いてみたいと思っている。