此の期に及んでお前の中で担当という概念はまだ生きていたのかと言われそうなクソDDですが私の中で僅かに生きている担当という概念がこの度久々の更新を迎えまして新たに北山宏光さんを担当とすることにしましたことをここにご報告致します。尚クソDDは継続となります。宜しくお願い致します。
— あやや (@hraom) 2015, 9月 20
2015年9月20日、V6岡田准一さんからKis-My-Ft2北山宏光さんに担降りした。
事実としてはたったそれだけ。私が一番に応援するタレントが変わろうが世界は1ミリも変わりやしない。ファンの1人の増減がタレントに与える影響力なんて無い。これからも変わらずアイドルは未来へ向かって走り続ける。主人公はあくまでアイドルであり、私たちは脇役でありたい、という考えのもと、自分が主人公になってしまう担降りブログを書くのは如何なものかと思ったが、私も何だかんだ人の担降りブログを読むのが好きだし、自分の思考の整理の為に書いておこうかと思い立ってキーボードを叩いている。まず「担降り」って何だよと思われている方の為に簡単に説明すると、ジャニヲタの1番に応援するタレントが変わること、である。この「担降り」に含まれる重量は人によってそれぞれであるが、ジャニヲタの中ではヘビーなものと捉えられていることが多い。「担降り」をすると「おめでとうございます」と言われることもある。誰かを選ぶということは、誰かを選ばないということであり、「担当」という言葉の持つ力もあって、その責任は大きく捉えられがちである。例えば、高層ビルの屋上から飛び降りるような覚悟で担降りをした人は、一度これまでの自分を殺し新たに生まれ変わるかのように、Twitterやブログのアカウントを一新させてしまう場合もある。また高層ビルから飛び降りたものの、上手く生まれ変われず重傷を負ったままの人は、以前の担当に対する凄まじい未練を抱えたまま次の世界へ飛び込むことになる。そんな人生のビッグイベントと捉えられがちな「担降り」であるが、今回の自分の「担降り」はビルからの飛び降りではなく、不注意で階段から滑って落ちた程度の軽傷である。ビルからの飛び降りは自分の意志で飛ぶしかないが、階段からの滑り落ちは自分の意識は薄い。けしてそんなつもりではなかったけれど、うっかり気が緩んでいた瞬間に起こった事故のようなものである。
Kis-My-Ft2北山宏光さんを初めて知ったのは、まだ彼がジャニーズJr.の頃だった。ジャニーズJr.の誕生日図鑑なるものが雑誌についていて、そこで彼が自分と誕生日が同じであることを知った。9月17日生まれは、芸能界でもあまりパッとする人が居なかったので、初めて自分と同じ誕生日で興味圏内の人に出会えた、という感覚だった。しかし私はその頃の北山さんがどうも苦手だった。同年代の他と比べジャニーズJr.に入るのが遅く年少期の下積みがないままに突然パッと出て来てやけにギラギラしている。鋭い目を長くて明るい前髪の中に隠し、そこから世界を睨みつけているようで、アイドルはもっとギラギラしているのではなくキラキラしていなければならないと自分の勝手なアイドル美学を説きたくなるような存在だった。またデビュー前のKis-My-Ft2グループ全体に対しても同様の危うさを抱いていて、私がここと交わることは今後も無いだろうとずっと思っていた。
その印象が変わったのが、2011年Hey!Say!JUMPのSUMMARY東京ドーム公演にKis-My-Ft2がゲストとして登場しパフォーマンスをした時のことだった。この公演は元々Hey!Say!JUMPの八乙女さんがKis-My-Ft2の玉森さん藤ヶ谷さんとドラマで共演していたことがきっかけで、玉森さんと藤ヶ谷さんのみがゲスト出演すると発表されていたのが、恐らく集客が追いつかないという判断の下、Kis-My-Ft2全員がゲスト出演することになったのだと記憶している。メインはHey!Say!JUMPだったはずでありながら、Kis-My-Ft2が登場した時の歓声は凄まじく、この日の公演で会場全体が一番大きく沸いたのがKis-My-Ft2の「FIRE BEAT」だった。ちょうどその1ヶ月前にデビューを遂げたKis-My-Ft2は、容姿こそ落ち着いていたが、変わらずギラギラとして鋭い目は手放していなかった。彼らのその前のめりな姿勢は、Hey!Say!JUMPのファンが集っているというアウェイな環境において抜群の効果を発揮していて、特に北山さんと藤ヶ谷さんの「この会場に居るHey!Say!JUMPのファンを全員Kis-My-Ft2のファンに変えてみせる」と言わんばかりのパフォーマンスに心を撃たれた。当時Hey!Say!JUMPのファンとしてその会場に身を置きながら、とんでもないゲストを呼んで来てしまっていると冷や冷やした。嘗て私が苦手だと感じていたギラギラ感を、彼らは手放すことなく貫き通して来たことが、正解だったのだと目の前で証明されたようだった。
そこで純粋にその二人の才能に惚れ込んでおけば良かったものの、私はそこで一旦遠回りをしてしまい、その次に彼らに対して抱いた感情が「嫉妬」だった。アイドルは容姿の美しさという外面的な才能と、パフォーマンスや振る舞いや発言からアイドル化を測る内面的な才能との二つで構成されていると思っている。ジャニーズにおいては前者の才能が大前提としてあり、特にグループのエースとなるものには必ず前者の条件が求められる。後者の才能は後からいくらでもついてくる。しかし北山さんと藤ヶ谷さんは、圧倒的に後者の才能が優れているタイプのエースだった。Kis-My-Ft2において前者の才能が強いエースは玉森さんである。北山さんと藤ヶ谷さんは素材以上のかっこよさを演出する才能に長けていて、私たちはいつもマジックを見せられているような感覚に陥る。これほどまでに自分の魅力を何十倍、いや何百倍にも膨れ上がらせる方法を知っている人がこの世にあと何人居るのだろうか、数少ないその才能の持ち主が同じグループに集結している奇跡に感動し嫉妬した。誰だって自分の容姿以上の魅力、いや魔力とでも呼ぶべき才能が欲しい。一歩間違えたら私だってKis-My-Ft2になれたかもしれない、いや女なので絶対なれっこないのだけど、「なれたかもしれない」という希望と「でも私にはこの才能はない」という絶望が、北山さんと藤ヶ谷さんを見ている時には同時に訪れる。もし運命のいたずらで北山さんと藤ヶ谷さんが、とても容姿が美しいエースを持つ他のグループに入っていたとしても、この二人は絶対に前に出てくるしかなかっただろうと思う。私は別のグループを追いかけながらも、二人を見る度に二人になりたくてなりたくてしょうがなかった。
自分は女性でありながら男性アイドルの才能に嫉妬するという不思議な感覚の上を浮遊していたが、その嫉妬の感情を認めてしまったら後は早かった。私は東京ドームで北山さんの一挙一動を見逃すまいと双眼鏡を握り締めていた。そのせいで他のメンバーが何をしていたのかほとんど知らない。北山さんは3時間のコンサートの間、常に全力で歌って踊っているように見えるのに、コンサートの終盤にアイドルが見せる達成感に満ちた表情をしない。ファンに手を振る時も、他のアイドルはファンが振り返してくれる姿を見て愛しそうに破顔したり、ファンからレスポンスが返って来ることを楽しみにしているが、北山さんの場合は、勿論ファンに向かって手を振るのだが、それがファンのところへ届く前に自己完結しているように見えた。コンサートで同じ空間を共有しているはずなのに、こちら側の矢印を彼はあまり求めていない。しかしそれだとファンは満足しないのではないかと思うかもしれないが、その代わりにパフォーマンスで充分に満たしていくのが北山さんのスタイルだった。歌もダンスも終盤までずっと手を抜かない。手を抜くという発想どころか、疲れが蓄積されてくる終盤の方が良いパフォーマンスを見せて来る。負荷がかかればかかる程、良い表情をしてくるアイドルだった。私はこれまでコンサートに行くと、「嫌なことがあっても今日の僕たちのことを思い出して頑張れ」とアイドルから言われることを、妙に素直に受け入れられなかった。嫌なことは確かにアイドルを思い出して解決することもあるけれど、その解決方法としてアイドルを選ぶかどうかはこちらが決めることであり、一歩間違えたらアイドルとファンの間に異常な馴れ合いや依存関係が生まれてしまうと半分耳を閉じて聞いていた。しかしKis-My-Ft2のコンサートでは、「俺たちが幸せにする」という姿勢はなく、ファンに対する呼称も無い。また北山さんは最後の挨拶で「俺たちが励みになれば」とだけ言う。コンサートで大勢のファンから熱烈な視線を受けても尚、彼らは自分たちの立ち位置を崩さない、ファンとの距離感を変えない姿勢にグッと来た。
不注意で階段から滑り落ちたにしては色々と語ることがあったものだと4000字も書き連ねている自分にびっくりしている。かれこれ何回目の担降りかは分からないけれど、東京ドームの天井高くフライングで昇っていく北山さんを見て、私の新しい道しるべになってくれと思った。今回のコンサートツアーオーラスのMC中にプロテインを飲んでいた玉森さんに対し、他のメンバーが「アスリートだね」と褒めたシーンがあった。玉森さんは「この運動量(他の場では)出ないじゃん」と笑いながら答えたが、北山さんはそれに対し「それはジムで(自分を)追い込めよ」と突っ込んでいた。北山さんの「追い込めよ」がずっと頭の中に響いている。自分が追い込んでいなければ他人には絶対に言うことが出来ない台詞。私も最近自分を追い込んだことがあるだろうかと考えた。多分、ない。新しい道しるべは、とても強い。