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君には僕しかいないって形で証明しないでくれ

その日は夕方雨が降った。濡れた地面から熱気と湿気が身体にまとわりつく嫌な夏の感触。地下鉄の改札口からホテル最寄りの出口まで、永遠に続きそうな直線の道を、顔を火照らしながら私は歩いた。その間にもしここで力尽きて倒れたとしたら、私はこれまでの記憶ごと全て失くして何かに生まれ変われるだろうか。一日中ヒールを履いて過ごした足が悲鳴をあげている。足の神経から順番に感覚を失って、やがて脳までたどり着いたら、私はリセットされるのだろうか。そんなことを考えていたらホテルに着いた。綺麗にシーツの敷かれたベッドの上にすぐさまダイブするでもなく、鞄の中から3本の団扇を取り出して私はうっとり枕の側に並べた。こちらに向かって3人のみっくんが笑っている。

数時間前、私は名古屋ドームで“初めて”みっくんこと北山宏光さんを見た。“初めて”とは事実上は嘘だ。でも夢想上は本当だ。私はこれまでに何度か生のみっくんを見ている。けれどもそれらは全て私の視界の隅の方に存在していたに過ぎず、私の世界の中心に彼を置いたのは初めてだった。世界の隅の方にいた頃のみっくんは、私にとっては自分と誕生日が同じ人間の一人でしかなかった。けれども世界の中心に置いた瞬間に、それは誰にも真似することの出来ない運命に変わる。誕生日が同じだからと言って何がある訳でもない、けれどもこれは1/365の確率で私が獲得したみっくんとの生涯変わらぬ共通項だ。

私は以前ここでみっくんが可愛らしい生き物であることを綴った。しかしながらそれはみっくんの全てを認めないための自分に対するフェイクだった。みっくんは私にとって「可愛い」の籠の中で大切に飼われているリスであり、そのリスが実は自分でその籠を破壊して外へ飛び出していくことが出来る野獣であることを、私は知らない振りをしておきたかった。自分が呑み込まれていく可能性を小さくする為の自己防衛。けれどもリスの顔をしたみっくんが、本当はリスの可憐さにとどまらない野性的な魅力を備えていることにはとっくに気づいていたのだ。

初めて見るみっくんは、名古屋ドームの上空を飛んでいた。地上にいる我々が手を伸ばしても絶対に届かない高さから、みっくんは私たちを見下ろしている。その瞳は輝きに満ち、僅かに緩んだ唇から、美しい歌声がこぼれ落ちる。耳は上質な音色を吸い込み、熱を帯びる。みっくんを捕らえた目は瞬きする必要もないくらい、涙で湿度が保たれていた。あぁ、みっくんだ。ようやく脳が追いついてきたところで、みっくんはドームの奥の方へと消えていく。遠ざかっていくみっくんの後ろ姿を眺めると身体の奥の方がキュッと痛んだ。

夢想上ではなく事実上初めてみっくんを見た時、その目の鋭さに驚いた。会場にいる人間全員を魅了して帰るような気迫の、鬼のアイドルだと思った。ギラギラとしたその目つきを、私は最初こそ苦手に感じていたが、やがてその目に心を奪われまいと、私とみっくんの耐久勝負になった。結果、私は完全なる敗北を認めることになる訳だが、あの目になら何度だって殺されてみようと思う。石のように固まって動けなくなる感覚、それを味わせてくれるのはみっくんだけだ。

可愛いだけにおさまらないみっくんは、想像以上にマルチだった。女子アイドルのそれに近い歌唱法、リズム音に的確にハマるダンス、周りの雰囲気を一斉に飲み込んでいく表情、メンバーの信頼が集まっていることの分かるトーク、配慮の行き届いた演出、絶妙なバランス感覚で全てをこなし、それでいて完全体になり過ぎないように僅かな隙を見せるところまで抜かりがない。これまで耐久勝負に耐えて来れた自分は奇跡ではないかと思う程、みっくんには希望しかなかった。

胸いっぱいのみっくんを浴び恍惚の境地に達した頃、ジャニヲタ1年生の同行者が「ジャニヲタって楽しいですね、もっと早くなっとけば良かったです」と隣で目を輝かせていた。私は彼女のことを心底羨ましいと思った。彼女がジャニヲタにならなかった過去を悔いていた頃、私はジャニヲタとして12年も過ぎ去ってしまった過去を悔いていた。これまでの記憶を全て捨て放ち、ここから新たにジャニヲタを始める方法を模索していた。純粋な心で初めてみっくんに恋をした少女になる為に、記憶喪失になった振りをするところまで本気で考えたが、過去を塗りつぶしてまでして陶酔することの恐ろしさに怯んで結局出来なかった。

ホテルのベッドに寝転びながらみっくんに相応しい言葉を探した。みっくんはソロ曲の中で言う「言葉はちっぽけだから」と。これまで私は言葉さえあれば何だって表現出来ると、言葉の力を過信してきた。けれども今夜は、みっくんに同意する。みっくんを前にすれば言葉もちっぽけなものでしかない。見つからない。みっくんに相応しい言葉はまだ私の見つけた言葉のずっと奥の方、宇宙の彼方まで探しに行かないと見つからない。だから今日も文字では描ききれないみっくんの残像を思い出して、明日に向かって目を閉じる。記憶は消えなかったからこそ、私の瞼の裏側でみっくんは今日も歌っている、踊っている、笑っている。