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森田剛主演舞台「夜中に犬に起こった奇妙な事件」

現場 V6

森田剛さんが舞台作品で高評価を得ている、という情報はV6のファンになる前から小耳に挟んでいた。しかし舞台作品というのは、コンサートや映画やドラマと違って、後日ディスクになる確率は少ない。高評価を得た作品がどんなものであったかを後から観ることは難しい。実際に劇場に足を運んだ者のみが、ステージに立つ俳優の、才能の目撃者になれる。そして私は今回、その目撃者の一人になった。

前作「鉈切り丸」(2013年10月12日 - 10月26日、オリックス劇場 / 11月8日 - 11月30日、東急シアターオーブ)の評判も上々で、ジャニーズ事務所の所属タレントに事務所側から「いい芝居だから勉強のために見に行きなさい」とジャニーズ初の指令が出たという話が、最新の会報で他のメンバーから語られていた。舞台俳優の成功例として森田剛さんは今、ジャニーズ事務所の後輩たちが学ぶべき対象にもなっている。そんな彼が今回挑んだのはアスペルガー症候群の15歳の少年という難役。

http://www.cidn.jp/
原作:マーク・ハッドン 脚本:サイモン・スティーヴンス
上演台本:蓬莱竜太 演出:鈴木裕美
<あらすじ>
15歳の少年の幸人(森田剛)はある日、近所に住む佐久間婦人の家の庭で、彼女の飼い犬が石で殴り殺され死んでいるのを発見する。
犬を殺したのではないかと疑われた幸人は独力で犯人捜しを始め、担任の瑛子(小島聖)からアドバイスを受け、その内容をノートに書き付けていく。そして近所の白瀬さん(木野花)らに聞き込みを行おうとするが、父親の誠(入江雅人)は、他人のことに首を突っ込むな、と息子を叱りつけるのだった。
幸人は誠の言いつけを聞かずに捜査を続けていたが、誠が捜査の詳細を書いたノートを見つけ、言う事を聞かない息子を殴り、ノートを取り上げてしまう。
幸人は、取り上げられたノートを探そうと誠の部屋を調べていると、自分宛ての手紙を何通か見つける。その手紙の差出人は、2年前に病院で心臓発作により急死した母親の広美(高岡早紀)からだった―――。

舞台の上で台詞の最初の一言目を発した時点でもうそこに森田剛さんはいなかった。確かに森田剛の姿かたちをした人物がそこに立っているが、その中の人に私は森田剛さんの面影を一切捉えることが出来なかった。声は少し掠れ気味、背中はまあるく猫背になり、話している相手の目を見ることが出来ず、常に床や遠くと会話をしている。発する言葉のリズムは独特で、語尾にはほとんど伸ばし棒がついてくる。そして早口。頭の中にある情報を出来るだけ多く正確に伝えようとしている主人公・幸人の駆け抜ける様な会話のリズムが出来上がっている。そこにはけして過剰につくりあげているという不快感はなく、幸人の純粋で素直な部分が綺麗に洗い出されていて、私たちはその振る舞いを見守る内に彼のことを愛しいと思い始める。アスペルガー症候群の少年を演じるにあたり、森田さんはパンフレットでこう語っている。

アスペルガー症候群についてはほとんど知らなかったので、まずはどういうものかを知るために、台本が上がってくるまで、映像を見たり、調べたりしました。自閉症の一種で、人によって症状に違いがあるらしいので、演じ方は自由だなと思いました。自閉症の役だからと特に意識はしていません。今まで演じてきた役柄と同じで、体の動き方、話し方、間の取り方、すべてが自然なクセというか個性として表現できればいいなと思っています。
(「夜中に犬に起こった奇妙な事件」パンフレットより)

「個性」として表現することを決め、過剰な装飾を塗りこまなかった演技は、自然体でありながら、普段の「森田剛」から最も遠いところにあった。この舞台の為に減量した顔には、頬骨が浮かび上がり、細い首の真ん中にはぽっこりと突き出した喉仏がある。体中の鍛えられた筋肉もいつの間にか存在を消し、ただポツンとした小ささが残る。幸人は常に腕に力が入り曲がっていて、その腕はたまに行き場がなくなり少し後ろの背中を掻いたりしていた。その仕草もこの台詞の時に背中を掻く、と意識的に組み込まれたものでなく、森田剛さんが幸人として生きたからこそ自然に出てきた仕草の様に見えた。舞台上を移動する時は小さな歩幅で沢山足を動かして小走りになり、それも計算された動作ではない。何処を切り取っても本来の「森田剛」が漏れ出る隙間はなく、肉体だけがそこにあり魂がすり替わった様だった。これが森田剛さんが天才と評される所以かと鳥肌が立った。

この舞台は特に現在進行しているシーンと関係のない人物たちも、舞台上に残り息を潜めているという構成も面白かった。例えば近所の住民の役をした人たちが自分たちのシーンを終えた後も、舞台の端っこで椅子に座って現在進行しているシーンを眺めている。そして場面が変わる度に自分たちで椅子を移動させたりして、本来裏方がやる仕事も全て舞台上で行い、その動きすらも一種のエンターテイメントにしてしまう。幸人が大好きな宇宙の話をする時も、宇宙の無重力空間に浮かぶ様子を表現する為に、他の出演者が幸人の身体を持ち上げ宙に浮かばせてみたり、エスカレーターを降りるシーンも、椅子を積み上げたものを階段と見立て、その上から降りていく時に彼の身体を他の出演者が支え運び、如何にもエスカレーターを利用しているかのように見せている。機械的な装置や無駄なセットは作らず、全てを椅子と人の身体で表現していた。幸人が一人で成長していく冒険話であるが、そこには常に見守っている人の目がある温かさを表している様に思えた。

最も感情を揺さぶられたのは、幸人が母からの手紙を読むシーンだった。母は死んだと父から伝えられていた幸人は、その母の死に対して悲しくないのかと問われ、「現実しないことや存在しないことに悲しむのは意味がない」と一度答えている。存在しないものに対する幸人の感覚は、意外とあっさりとしたもので、母に対しての情念は母の死と共に消えてしまったのだと思っていた。しかし母は実際に生きていると分かり、またその残酷な理由を言い渡された時、彼はウーウーと唸りながら床に何度も頭をぶつけ部屋の中で蹲る。母を演じる高岡早紀さんは蹲る彼に向かって更に強い語気で現実を突きつけていく。理解出来ずに混乱の渦に巻き込まれ苦しむ幸人と、自分の思いを全てぶつけたい母親の思いが重なって、激しい感情の衝突が巻き起こっていた。本当に悲しむべき苦しむべきはどちらなのか、選択出来ない心苦しさにぎゅうっと心臓を搾り取られる様な感覚があった。

ほとんどが機械的に状況説明の台詞になる幸人は、あまり感情を表に出すシーンがなかった。「混乱」という意味で頭を抱えるシーンは何度かあったが「嬉しい」や「楽しい」といったポジティブ表現をする場面は少ない。「~しなければならない」という予定に対して忠実に動き、それが崩れることは苦手としていた。そんな彼が少しだけ口角をあげて表情をつくることを許した場面が2つあった。1つ目は母との思い出の回想シーンである。母の隣に座り込む時、そこには他人との距離を置いた時の「無」の表情とは違った、穏やかな表情があった。例え両親でも身体に触れられることを苦手としている彼が、そっと母にだけは自分から寄り添いたい気持ちがあるのではないかと感じたシーンだった。もう一つは動物に触れる時である。飼っているネズミ、父からプレゼントされた犬を触っているシーンの彼はあからさまに嬉しそうだった。それでもけして満開の笑顔という訳でなく、小さな変化しかない。抱きかかえる様子から「嬉しい」という感情を表現していて、その僅かな表現の巧さがとても美しかった。

最後に言及しておきたいのは、カーテンコール。幸人は数学検定準1級に合格する程の数学力を持っていて、劇中にも素数を唱えるシーンや、2の乗数を唱えるシーンが出てくる。素数を唱えるシーンはもともと録っていたものを流していた様だが、2の乗数は森田さん本人の口から台詞として発されていた。「1、2、4、8、16、32、64、128、256、512、1024、2048、4096、8192、16384…」とこれもまた早口で出てくる。話の流れから覚えられる通常の台詞回しとはまた違った記憶力を使わなければならない2の乗数を唱える台詞。それだけでも感嘆したのに、カーテンコールでは、「ピタゴラスの定理」の証明を歌に乗せて披露するサービスまであった。観客のどこまでがこの証明についていっているのか分からないが、自分の知識が到底及ばない高度な問題の解説を一方的に唱えられることには新鮮な興奮があった。

舞台には俳優と一緒に緊迫した雰囲気を共有する楽しみがある。少しでもここまでの稽古で積み重ねられた調和が崩れた場合、それはダイレクトに観客にも届いてしまう。劇場の空気が一瞬ぐらっと揺れる。その時にこの空気をどう結び直すかというのも舞台人に求められる能力だと思うが、森田さんの演技にはそうやって傍観させられる瞬間を与えてもらえなかった。凄まじいスピードで放たれる台詞の速さについていく内に、演者のペースにみるみる吸収されていく。安心して彼の演技に身を任せて観ることが出来る。しかし私はまだ森田剛さんの才能の一部を見たに過ぎないと思われるので、まだまだこれからもっと沢山彼の才能に溺れていきたい。