アイドルオタクが魅了された映画『国宝』

※この記事は映画『国宝』のネタバレを含みます

この日私は夕方新宿で他の映画を観る予定があり、しかし友人とのモーニングが思いのほか早く終わり、空き時間を埋めるべく急遽もう一本映画を観ようと思って選んだのが前日に公開されたばかりの『国宝』だった。歌舞伎は一度も本物を見たことがないし、上映時間が3時間もあるということに少々ビビりながら、でももうあと10分で上映開始するというタイミングで新宿バルト9へ駆け込んだ。事前情報を集めたりする暇もなくバタバタと緊急鑑賞した映画だったが、これが深く余韻に浸ってしまうほど良かったのだ。その直後にXに投稿したポストがこれである。オタクに届けという思いで投稿した。


映画『国宝』は日本の伝統芸能である歌舞伎の世界を忠実に描いた作品で、出演者たちも撮影の前から年単位で稽古に取り組み実際の演目を作品の中で演じていたりと、映像作品としてのクオリティが高くて本当に素晴らしかった。その辺りの解説はより詳しい方々にお任せするとして、私はアイドルオタクなので、芸能の世界を生き抜く主人公の喜久雄(吉沢亮)と俊介(横浜流星)の関係性が、とにかく全編を通してかけがえのないものだったという切り口で感想を記しておきたい。

後に国の宝となる男は、任侠の一門に生まれた。 抗争によって父を亡くした喜久雄(吉沢亮)は、上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎(渡辺謙)に引き取られ、歌舞伎の世界へ飛び込む。 そこで、半二郎の実の息子として、生まれながらに将来を約束された御曹司・俊介(横浜流星)と出会う。 正反対の血筋を受け継ぎ、生い立ちも才能も異なる二人はライバルとして互いに高め合い、芸に青春をささげていくのだが、多くの出会いと別れが運命の歯車を狂わせてゆく...。 血筋と才能、歓喜と絶望、信頼と裏切り。 そのもがき苦しむ壮絶な人生の先にある“感涙”と“熱狂”。 「歌舞伎」という誰も見たことのない禁断の世界で、激動の時代を生き抜きながら、世界でただひとりの存在へ―― 。
映画『国宝』公式サイトより)

あらすじの通り、喜久雄は血筋を受け継いでいない部屋子であり、俊介は生まれたときから歌舞伎の世界で生きていく運命が約束された名門の跡取りである。彼らは学生の頃から共に毎日のように稽古を受けて切磋琢磨して成長してきた、仲間であり時にライバルであり家族のような関係性である。まるでその家の双子かのようにほとんど区別なく育てられ、やがて二人セットで舞台デビューして「東半コンビ」として一躍人気者になっていく。この初舞台の前にお互いの緊張を和らげるために舞台裏でデコピンして気合いを入れ合う姿など、アイドルのバックステージドキュメンタリーを観ているかのような高揚感がある。二人は二人で一つなんだということを実感するシーンである。

しかしそんな彼らに最初の亀裂が入るのが「半二郎の代役事件」である。次の舞台が控えている半二郎が怪我をしてしまい代役を立てなければならない状況となる。誰も代役を務められないのではないかと懸念される中、半二郎自身が喜久雄を代役に指名するのである。本来であれば自分の息子である俊介にその代役をあてがうべきところを、部屋子である喜久雄を指名して周りは混乱する。半二郎の妻役で出演していた寺島しのぶさんが舞台挨拶の場で「世襲の歌舞伎界では、ほとんど考えられないこと」と仰っていたが、現実にはあまり起こり得ない逆転現象が物語の中で起こるのである。俊介はきっと喜久雄さえいなければ自分がそのチャンスを掴んでいただろうということを理解しながらも、ほとんど喜久雄に八つ当たりしない。映画の終盤で立場がまた逆転する瞬間がやってくるが、喜久雄と俊介はお互いを心の深くまでは憎み合わないのである。相手の存在によって自分の人生が狂わされているにも関わらず、真っ向から対立したりしないのは、厳しい世界で共に闘ってきたからこそ互いを認め合う気持ちが二人の中に基盤として根付いているからなのかと思うと、立場が入れ替わる度に胸が苦しくなってしまう。

代役を務めるために半二郎から厳しい指導を受けた喜久雄は、目に新たな光を灯して舞台に挑もうとする。息子である俊介よりも自分が優先されまた半二郎から直々に指導を受けた喜久雄はそれだけ聞くと自信を持って舞台に上がれそうな気がするが、彼は初日の舞台裏で化粧をしながら緊張で震えているのである。そこに俊介がやってきて、震える喜久雄に代わって喜久雄の化粧を仕上げていく。このとき俊介は悔しい気持ちと喜久雄を支えたい気持ちとの両方があったと思うが、彼は優しい表情で喜久雄の顔に化粧を施していく。そんなシーンで喜久雄は言うのである。「今一番欲しいのは俊坊の血や。俊坊の血コップに入れてガブガブ飲みたいわ」と。喜久雄にとってのこの震えの最大要因は、稽古が足りなかったかもしれないとか上手くできないかもしれないとかそういったことではなく、自分が名門の血を引いていないまま舞台に立つことの怖さなのだということが分かって切ないシーンだった。技術や表現は努力で補えても、血筋だけはどうにもならない。一方で化粧を施す側の俊介は血筋は持っていても、才能において喜久雄に敗れているのである。お互いに相手の持っているものが欲しいはずで、私はこのシーンが映画の中で一番胸を掴まれて好きなシーンだった。

その後、俊介は喜久雄の舞台姿を見て圧倒され歌舞伎界から逃げてしまい喜久男がそのポジションを手にしたかと思えば、俊介が戻ってきてしまい喜久男が追いやられてしまったりと、彼らの生涯の中で立場が何度も入れ替わっていく。スポットライトを浴びるスターの立場と、隅に追いやられてしまう影の立場の両方を彼ら二人ともが経験するところが、この物語の魅力であり、そして二人がもう一度手を取り合って舞台に上がるという選択をするところに、何とも言えない壮絶な想いが生まれる。私には一生をかけて誰かの生涯を応援し続けたことはまだないしこれからもないかもしれないけれど、この映画を通して二人の歌舞伎役者の生涯を追い続けたような気持ちになり、今まで抱いたことのない感情が胸の中にじんわり広がっていくようだった。

喜久雄を演じられた吉沢亮さんは、血筋を引いていなくとも選ばれてしまう圧倒的な才能をお芝居の中で見せなければならないし、俊介を演じられた横浜流星さんは、喜久雄を超えてはならないが跡取りとしての違和感がないほどの技術は必要で能力の調整が求められる。そんなお二人の演技力があってこそ私たちはこの喜久雄と俊介の関係性に没入できたと思っているので、吉沢さんと横浜さんの俳優としての力量に脱帽するしかない。

この物語はフィクションではあるが、芸能の世界では現実的にも起こり得ることで、誰かの存在によって誰かの運命が狂わされることは往々にしてある。あの才能を持ったアイドルが同期にいなければセンターは自分だったかもしれない、あの時あの子が辞めていなければもっと売れたかもしれない、もあれば、あの子がいなかったら自分もここにいなかったかもしれない、もあると思う。少なからず私も自分が応援するアイドルの中でそういった関係性を見てきた。映画『国宝』の喜久雄と俊介はそういった芸能の世界における運命の入れ替わりを濃縮したような物語を生きていて、私は3時間ずっと魅了され続けていた。本当に素晴らしい作品だったので、多くの人に届いて欲しい。