VS.OYASHIRAZU 第1ラウンド

7月の中旬、私は歯磨き粉を新調した。家族と兼用で使用していた歯磨き粉は、ドラッグストアの歯磨き粉コーナーの中でも極めてリーズナブルなもので、それはそれで満足していたのだけれど、単価の高い歯磨き粉に変えてみたら、人生の景色が少し変わったりするものだろうかというちょっとした好奇心で、これまでより千円程高い歯磨き粉を購入した。歯磨き粉で人生の景色が変わることを期待している辺り、私はおめでたい人間だが日々のルーティンを少し変えてみるのは、ちょっと楽しい実験だ。

翌日新しい歯磨き粉で歯を磨いてみたところ、歯の隙間の要所要所から出血があり、歯磨き粉はあっという間にピンクに染まってしまった。「染みないケア」と書かれているので優しい成分が含まれていると思っていたのに、こんなに悲惨な口内に発展するとは思っていなかった。この時、私はまだこの事件は新しい歯磨き粉のせいだと思っていた。買ったばかりなのにすぐ使用を止め、翌日からは元の歯磨き粉に戻したのだけれど、歯を磨く度出血があり、何なら歯を磨かなくても出血するようになった。

歯医者には中学生以来お世話になっていない。高校生以降歯が痛むようなことはなく、私の口内は常に平和が保たれていた。周りの人の歯医者通院話を聞く度に、いつか私もまた歯医者にお世話になる日が来るのだろうか、年を取ったら歯のトラブルも色々あるだろうからその時かしら、なんて呑気に構えていたのだけれど、遂に私も中学生以来の歯医者通院チャンスが巡って来てしまった。7月中は仕事の休みが取れなかったため、平日20時まで開いている歯医者を予約して駆け込んだ。

「歯の隙間からずっと出血してます」歯科衛生士に私がそう告げると、歯科衛生士がそれをそのまま近くにいる歯医者に伝え治療を始めるシステムで、何故最初だけ伝言ゲームにする必要があるのか分からないが、何度通院してもそのシステムは変わらない。治療が始まると歯医者と直接喋れる。最初からそれでは駄目なのだろうか。歯医者は私の口内を3秒くらい眺めて「あぁ親知らずかもね」とあっさり解答を導き出し、そのまま私をレントゲン室の中へ誘導した。え…親知らずだと…?!私はてっきり歯周病なのだろうと思い込んでいたので、親知らずという単語に面を食らってしまった。親知らずとは無縁の人生だと思っていたのに、ここに来て親知らず。みんなが顔をしかめて話す、あの親知らず。

失意の中レントゲン室に放り込まれた私は、ガーゼのようなものを歯で噛みながら機械の上に立たされた。健康診断や内科で胸のレントゲンを撮ったことはあるが、歯のレントゲンを撮るのは初めてで、どんな風に始まるのだろうと思っていたら、顔の近くにあった機械がまるっと私の頭を一周し始めたので、やばい私変身しちゃう!と5歳児のようなことを考えていたら、あっという間に撮影が終了した。

出来上がったレントゲン写真を医者と一緒に見たが、私の奥歯のその先には確かに親知らずがいた。その子はまだ一ミリも顔を出しておらず、他の歯がまっすぐ天を向いて立っているのに、一人だけ思いっきり横向きに生えていた。そして隣の歯に頭突きしているような状態だったので、それによって歯が押され出血していたのだと理解した。その子は左下の親知らずだった。はじめまして、あなたが噂の親知らずね。

続けて歯医者は言う。「抜かないといけないけど、埋没している歯だからここでは抜けないです。切開して抜く必要があるから口腔外科のある病院じゃないと抜けなくて、高知だと医大になります。ちなみに医大の口腔外科で抜けるのは、平日月曜水曜金曜の午前中だけです。紹介状書いておくので、いつ行きますか?」ちょ、ちょっと、待ってくれ。今初めて親知らずと対面したばかりなのに、その親知らずを抜くための試練が多過ぎませんか。休みが取れないから20時まで開いているこの歯医者に来たというのに、ここでは抜けず平日の午前中に医大に行かねばならないだと。しかし痛みも日に日に強くなっているので早く抜きたい。私は意を決して8月2日の金曜日にまだ一日も消化できていなかったリフレッシュ休暇を使用し、医大で抜歯することにした。リフレッシュ休暇とは。

決戦の日を迎えるまで、しばし時間があったので、私は周りのあらゆる人々から「親知らず抜歯こわいこわいエピソード」を収集した。「熱が出た」「2~3日めちゃくちゃ腫れた」「ご飯が食べれなかった」等々、親知らず抜歯先輩方はみんなあの時の辛いエピソードを嬉々として語ってくれた。これは最悪の事態を想定しておいてそうでもなかったよかったじゃんと安心するために行ったのだが、中には「でも出産の痛みよりはマシだよ」と出産経験のない私には参考にできない痛み度合いを教えてくれた方もいた。何はともあれ、私は一般平均より健康的な身体でこういう時に重症化することは無いタイプだと自負していたので、それらの話はすべて最悪の事態だと思い込むようにしていた。

そして迎える決戦の時。初めて足を踏み入れる大学病院はまるでアトラクションのようで、全科の受付を同じところで引き受け、そこで確認が終わったら歯科口腔外科へ行ってくださいと地図を渡される。その地図を頼りに歯科口腔外科へ行ったと思ったら、今度は放射線部に行ってレントゲンを撮って来て、また歯科口腔外科に戻って来い、と病院内を右往左往してようやく手術に辿り着けた。担当の医師は推定30代後半。「抜歯したらかなり腫れると思います。明日明後日にお酒を飲む予定はないですか?」と問われ、諸先輩方から症状を聞いていた私はばっちり翌日と翌々日の予定を入れていなかった。「明日も明後日も何も予定はないです」と答え、いざ手術の舞台へ向かった。

椅子に座り大きく口を開けると、女性の年配の歯科衛生士が優しく声をかけてくれながら吸引してくれた。最初に麻酔を差すということで医師から「ちょっとだけ痛むかも」と言われた。しかしこれは全然痛くなかった。何だ余裕じゃんと安心し切っていた。諸先輩方から聞いていたのである「手術は麻酔しているから全然痛くない」と。あとは私の奥歯で何が行われようと、私の知ったことではない。好きにしてくれ。という気持ちで迎えていたところ、「ちょっと嫌な音がします」と医師が告げる。ギィーーーッツと確かに嫌な音がしたが、これも何てことはなかった。恐らく骨を削っていたと思われる。しかし私は今痛みを感じないから無敵。と余裕綽々で後半戦を迎えたところ、何か大きなものを力づくで掘り起こすような力が働き、しかもそれが麻酔が効いていない箇所に向かって力を当てている状態で、いやいやいやいやいやいやいやいやあーーーーーーーー!!!クソ痛いじゃん!!!と私がリアクション芸人なら椅子の上で暴れていたレベルで痛かった。「痛かったら左手挙げてくださいね」と歯科衛生士が優しく言うものの、痛みを我慢するのに力んだ左手を挙げられる余裕なんて勿論無く、両目からポロンと一筋涙が零れた。医師が「これは痛かったね」と声をかけてくれるも、ちょっと聞いてない話過ぎて、歯と一緒に魂まで抜かれるのかと思ったと感想を漏らしたかった。手術はものの10分程度で終わったが、抜いた後の親知らずを見せられ「持って帰りますか?」と問われたが、魂まで根こそぎ奪われかけた私は「いらないです…」と答えるので精一杯だった。そんな諸悪の根源みたいなやつ、持って帰りません。

抜歯後は簡単に注意事項を説明された後、左頬から顎にかけて麻酔で動かない顔を連れて、精算し院外処方箋をもらって帰った。抜歯手術とレントゲンで6,500円だった。コンサート1公演分かと思うと高いが、これで今後数十年の口内の平和が保たれるのであれば安いのかもしれない。こんなに魂を抜かれ疲れ果てた状態でもこの病院で薬はもらえず、自分で調剤薬局に行って処方箋を出して薬をもらわないといけないシステムにはまだ納得し切れていないが、みんな普通にそのシステムを受け入れ院外処方箋をもらって帰っていたので、私がまだ時代に追いつけていない。

手術後は順調に30分程度で止血し、麻酔が効いている間は痛みも感じないので、これが親知らずの抜歯か~人生の初体験が増えた~経験値が上がったぞ~!と呑気に考えていたが、麻酔が切れた瞬間から恐ろしい痛みが押し寄せ、慌てて処方されたロキソニンを飲んだ。手術当日は腫れも見えず痛みも薬を飲めばおさまる程度だったので、きっと私も平均的な症状でおさまるだろうと思っていた。しかし2日目~3日目は、顔がまるで食パンマンのごとく腫れ、日中は熱も出た。思っていたより辛く、手術の翌日と翌々日が仕事じゃなくて良かったと心底思った。3日目以降は、顎から首にかけても腫れ出し、朝起きた時は妖怪二十顎の形相だった。5日目は腫れは少し引いたものの首回りが真っ赤になり熱を持っていたので、慌てて仕事終わりに行きつけの歯医者に駆け込んだが、「首にリンパが通ってるから腫れてるだけです、普通です」と言われて帰って来た。

そして今抜歯から15日目。2週間もすれば完治だろうと構えていたが、何とまだ完治していない。腫れはもうほとんど引いたものの、顎がまだ硬く口の開閉も全快ではない。諸先輩方から話を聞いて最悪の事態を想定していたけれど、2週間もかかるとは聞いておらず、聞いていた話の中で自分が一番最悪のケースになってしまったので、毎日早く治りますようにと願いながら21時半には就寝している。おかげですこぶる肌の調子が良い。治して欲しいのそっちちゃう!と自分の身体に突っ込みを入れている。

親知らずとの戦い、本当はもっと早く記録として残そうと思っていたのに、一向に完治しないので、もう今日を機に第1ラウンド終了としたい。ちなみに第1ラウンドと表記しているからには第2ラウンドがあり、実は右下の親知らずも抜かないといけない状態にある。一回の手術で2週間も奪われるとなると、抜く時期も見定めが必要で、顔が腫れている状態では人に会えないし、美味しいご飯も食べられないので、第2ラウンドの時期選択に非常に迷っている。2週間って、1年の24分の1な訳で、たった2週間、されど2週間。身体の奥に隠れたほんの数センチの異物のために、こんなに翻弄させられるとは思っていなかった。恐るべし親知らず。次回の戦いは如何に。ひとまず、うっすら腫れた頬を連れて、今日から東京旅行へ旅立ちます。