先日、映画「信長協奏曲」を見て来た。いきなりだけどまずは「ピンクとグレー」の話ではなく「信長協奏曲」の話から入る。映画をよく一緒に見に行く友人とその日も見に行っていた。「信長協奏曲」は連ドラが放送されていた時は見ておらず、最近の再放送を数話見てハマり、映画を見に行った訳だが、これがまた後日じっくりブログに感想をしたためたい程面白かった。一緒に見に行った友人も、連ドラ時からのファンで、映画を見た後も楽しかったととても満足気な表情だった。二人で感想を語り合いながら、ランチを食べていた時、ふと彼女が言った。「これって、原作に忠実なのかな」。「信長協奏曲」には確かに原作の漫画がある。すぐにスマホで調べたところ、原作とドラマ・映画には、大きく違うところがあるようだった。それを伝えたところ、彼女の顔は一変し、途端に表情は暗くなり「はぁ」とその場でため息をついた。彼女は「信長協奏曲」の漫画を読んでいない。けれども彼女は明らかに、原作に忠実ではない映像化作品に対して嫌悪感を示した。彼女がこのような反応をすることは、今回に限ったことではなく、原作のある映画作品を見に行った後は、必ず原作との相違点の有無をネットで確認し、原作と大きくズレが生じた作品であることを知ると酷く落ち込む。私はせっかくお互いに“映画作品として”楽しんだものを、「原作との相違点がある」ということだけで作品の質が落ちたものにしてしまう彼女が不思議でならなかった。原作のファンだったならまだしも、自分が読んでいない原作のことにまで気を配る必要が果たしてあるのだろうかと疑問に思った。
ドラマや映画の世界は、一昔前に比べたら随分オリジナル作品が減り、漫画や映画の実写化で賑わうようになった。大人気作品の実写化は注目度も高まるところだが、最近では世間一般に知れ渡っていない作品でも実写化されることもある。昔は実写化される程の人気作品に自分はまだ目を通していなかったのだなと、実写版が放送される前に、慌てて原作を読み込むこともあったが、今は実写化される作品があまりに多過ぎて、原作を知らないままに実写版を見るということの方が多い。そうして原作がどんなものであったか曖昧なまま実写版を目に入れる人も増えて来たため、原作は原作として、実写は実写として切り分けられ、映像化するにあたって、その作品を更に進化させる、アレンジする手法も珍しくなくなって来た。そうすると、原作ファンは「オリジナル作品が変えられてしまった」と感じ、実写版を見る時の評価軸が「原作に忠実であるかどうか」になりがちなのではないかと思う。自分が好きだった作品が実写化された時に、良い思い出にならなかった経験から、自分が読んでいない作品に対してもオリジナル作品の尊厳を守ろうとする彼女のような考えが生まれたのかもしれない、と自分の中で結論づけた。
ここまで書けば大体私の立ち位置はお分かりかと思うが、私は基本的には原作と実写のズレに対してあまり執着はない。次元を超える際に必ず調整すべき点は生まれるし、またオリジナルに手を加えたくなる気持ちも分かる。「自分だったらこうする」と一読者として感じた点を、自分の得意な次元で再現出来るのであれば、何かひと工夫凝らしたくなる欲望は理解出来る。それをする勇気があるかどうかは別として。という訳で前置きが長くなってしまったが、映画「ピンクとグレー」はこの点について、観る前に覚悟をして挑まなければならない作品だった。ジャニーズ事務所のNEWS・加藤シゲアキさんが書いた「ピンクとグレー」という小説の実写化作品。監督は、行定勲監督。私は「ピンクとグレー」の単行本発売当時、本に蛍光ペンでラインを引いたり、ボールペンで感想を書き込んだりして、必死で「ピンクとグレー」を読み解こうとした程の原作ファンだった。またそれでいて、2014年には森田剛さんの「ブエノスアイレス午前零時」という舞台で、行定監督の手法にも一度触れていたため、原作アレンジの振り幅も体験していた。また都心部では1/9に公開されていたのが、こちらでは2/6公開と後出しだったこともあって、既に見に行った人たちが、ネタバレこそ呟いていないものの、何か煮えきらない思いを言外に隠していることも伺えた。そんな色んな情報から、事前の心の準備はバッチリ出来ていたため、今回は“映画作品としての”「ピンクとグレー」の感想を書いていく。
「62分後の衝撃」というのが、今回の映画の宣伝文句としてキャッチーなフレーズになっていたが、これは恐らく原作を読んでいた人は、すぐにアレだろうなと思い当たるところがあったと思う。私もおおよその検討はついていたが、2時間程の映画の中で62分というと、大体半分が過ぎた頃。原作と比較すると随分手前にその時がやってくるのだなと感じていた。そして、後半が原作からアレンジの飛んだ行定ワールドになるのだろうというところまで、「62分後の衝撃」から読み取っていた。そして、その予想は的中。劇中劇。中島裕翔さんが演じていた、と思っていた「ごっち」はもう既に亡くなっていて、そんな彼の生涯を映画にしてその主演を務めていたのが親友の「りばちゃん」だった、ということを徐々に理解させられる。62分までは、ごっち=中島さん、りばちゃん=菅田さん、だと思って見ていたものを、62分後からは、ごっち=柳樂さん、りばちゃん=中島さん、りばちゃん役=菅田さん、という風に配役を一つズラした状態で見なければならなくなり、原作を読んでいた身でも多少馴染むまでに時間がかかってしまう。このからくりは、映画化が発表された時に、「主演:中島裕翔」と記載されていて違和感を抱いたこととようやく繋がった。「ピンクとグレー」の主人公は、「りばちゃん」であるが、中島さんと菅田さんを「ごっち」と「りばちゃん」に振り分けるとしたら、明らかに中島さんは「ごっち」になってしまう。それなにの主演とはどういうことか、と考えていたところ、正式に配役が発表された時も、やはり中島さんは「ごっち」だった。映画では「ごっち」が主人公になってしまうのか、と違和感を抱いたことが、ようやくここで繋がる。
そしてこの配役のズレが生じたことから、62分に到達するまでの色々な場面を思い出すことになる。私は当初、菅田さんの演技が上手すぎると思った。「りばちゃん」としての葛藤が、間の取り方や表情にとても良く出ていた。しかしこれは、俳優を本業として活動している菅田さんの方が中島さんより圧倒的に俳優としての経験値が高く、また才能があるからだと思っていた。そして実際にそうであると思われる。しかし前半まだ私は、中島さんを「ごっち」として見ていて、菅田さんを「りばちゃん」として見ていたため、スターになっていく「ごっち」よりも「りばちゃん」の方が演技力があるのは不自然であり、中島さんが菅田さんに食われる形になってしまうのではないかと心配していた。しかし62分後に配役が一つズレてしまうと、それは全く不自然なことではなく、「りばちゃん」となった中島さんよりも、「りばちゃん役」の菅田さんの方が才能あるベテラン俳優であるという設定で問題なかったのである。行定監督がそこまで考えて作ったからくりなのかは知らないが、62分後の中島さんの「あっちの方が先輩なんですけどね」という発言で、前半の違和感を払拭される形となった。
後半の行定ワールドは、賛否両論あるかと思うが、私はこれはこれで好きだと言える気がした。「りばちゃん」が「全部、ごっちから貰った仕事でしょ」とサリーに言い放たれるところも、残念ながら「正論」だと感じた。原作の「それは恋とか愛とかの類ではなくて」という一節に見るように、「ごっち」と「りばちゃん」の二人の関係性は、原作では美しいファンタジーのように描かれていたが、行定監督はその関係ですらもシビアに、実際に現実世界で成り立つ人間の関係性を追究しているような気がした。片方は親友だと感じていても、もう片方は何とも思っていない可能性もある。しかし最後に「りばちゃん」の前に現れて、全てを語った「ごっち」も、結局は「りばちゃん」が映し出したかった「ごっち」に過ぎないのかもしれないとも思う。いつしか「ごっち」の存在に縛られて、ふとした瞬間に「ごっち」の姿を見てしまうようになった「りばちゃん」は、最後に「ごっち」に裏切られたように見えるけれども、一番「親友」という契約から解放されたかったのは「りばちゃん」だったのかもしれないと思った。最後に「しょうもな」と叫んでいたけれど、あぁして「ごっち」の存在から解放されたことで、ようやく一人で歩き始めることが出来る、そんな希望ある隠喩だと信じたい。
と初回の感想をつらつらと書き並べてみたけれど、まだあと数回は見たいと思っている作品なので、何回か観ている内に、また解釈が変わってくる予感もしている。観た人が自由に解釈してよい余白も用意されている作品だと感じているので、また2回目に見える風景が変わっていれば、それも楽しみたい。ひとまず、初回の感想はこれにて終了。
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