今年に入ってから会社の同期が5人、仕事を辞めた。入社時14人居た同期は最初の1年で5人辞め、そして今年に入ってから5人辞め、入社から3年半経過した今、遂に残り4人となった。離職率の高い仕事なので、実際のところこれでもかなり残っている方ではある。それぐらい続けることが難しい仕事だと言われている。「辞める」と報告された時、残る側の私たちはもう何も言うことが出来ない。「辞めるかどうか悩んでいる」のであれば、話を聞いてあげて負担を減らすことが出来るけれど、「辞める」という報告には、もう私たちの介入する隙が無い。色々考えを巡らせた上での決断だと分かっている以上、「辞めないで」と言うのはこちらの都合で相手を困らせるに過ぎないと思ってしまう。そうして私はこれまで10人の同期の「辞める」を受け止めた。苦楽を共にした仲間との別れは、そう簡単に消化出来ない。けれども新しい道を選択する人の、足を私が掴むのは失礼だ。
思い返して見れば、私の人生は大体「残る」側だった。大学1年生の時に始めたアルバイトは、4年間一度も変えることなく同じ場所で働き続けた。その間沢山の人と出会っては別れた。学生時代はまだ若かったので、辞める人が最後の出勤日に挨拶をする度に寂しくて泣いていた。小学4年生の頃、クラスの女子の半分が、放課後体育館で練習しているミニバスケットボールチームに興味を持ち加入した。一過性のブームだったので、その時加入した数十人の女子たちは3ヶ月もしない内に、色々な理由を付けて辞めていった。しかし私は一緒に辞めることが出来ず、小学6年生の頃には最後の一人になり、自動的にキャプテンになった。大して運動神経も良くないので、後輩にパスを回してばかりで全然自分でシュートを打たないキャプテンだった。
私は「続けない」選択をするのが苦手だ。仕事も転職の手間や環境が変わることを考えると「続ける」ことを選択した方が楽だと考えてしまう。アルバイトも同じ。バスケットボールも心から楽しんでいた訳ではないのに、「辞めます」というエネルギーのことを考えると、続けている方がよほど楽だった。「辞める」のには理由が必要だけれど、「続ける」のには理由を求められることはあまりない。「何故辞めるんですか?」は聞かれるけれど、「何故続けるんですか?」とは聞かれない。理由が無くてもよい「続ける」を選択することの方が、私には合っている。だから「続けない」選択をする人の背中が、眩しかったりする。「継続は力なり」と言うけれど、「継続しないこともまた力なり」だと私は思う。
一人のアイドルが、アイドルを「続けない」ことを選択した。5万5千人に囲まれる東京ドームのステージに何度も立ち、観客からの好意を体中に浴び、限られた人間にしか味わえないくらくらするような経験をした。と観客側の私たちは思っている。そのステージからやむを得ない形で去ることになってしまった人はこれまで何人か見たが、自らの意思で期限を決めて自分の足で遠ざかろうとする人を私たちは久々に見るのかもしれない。「続けない」ことには理由が必要だから、私たちはその理由を探してしまうけれど、現時点では明らかではない。「続ける」ことの方が得意な人間にとって、大きな影響力を与えながら「続けない」選択をする彼を理解するのは難しい。けれども圧倒的な絶望の隣で、僅かな羨望が同居する。彼は「続けない」を選択出来る人だったんだ、と心の奥の方で嫉妬している。
「辞めるかどうか悩んでいる」なんて、アイドルはファンに相談してくれない。ファンの元に届く時には、既に「辞める」に気持ちが到達している。その時、「ファン」とはやはり一方的な存在であることを思い知らされる。「ファン」に話したところで「ファン」が解決出来る問題など無いからかもしれない。私たちは圧倒的に無力。悲しいほどに無力。「辞める」と言われて、「はい分かりました」なんて言えないけれど、もう「受け入れる」という選択肢しか残されていない。今回「続けない」選択をした彼は、過去に「続けない」選択をした仲間を見てきていただけに、「続けない」ことにどんな意味を見出したのかただ知りたい。
長年活動を続けているアイドルが、続けることの難しさを説いていたけれど、今の私には「続けない」選択をする複雑さの方に興味がある。どうして続けなかったのか、または続けられなかったのか。その選択をする方がよほど勇気のいることのように思える。