本「ラリルレ論/野田洋次郎」

私にはジャニヲタとして空白の期間がある。2007年、大学1年生の時。受験勉強の為に禁欲していた身体はすっかり憑き物が落ちたかのようにジャニヲタとしての欲望が無くなってしまっていた。一人暮らしをするにあたって、最小限に収められた荷物の中にもヲタクを続ける為に必要な道具は入っていなかった。もう自分がジャニーズにハマる事は無いだろうと踏んでいた。受験生活からのナチュラルなヲタ卒。念願のヲタ卒。そんな事よりもこれから始まるキャンパスライフに夢がいっぱいだった。

いざ大学生活が始まっても、私にジャニヲタに戻る兆しは無かった。よって2007年にリリースされたジャニーズの楽曲は、ほとんど一般人と同レベルでしか知らなかったので、後から補完した形になる。大学生活も楽しかったし、人生で初めてのアルバイトも楽しくて、単位もフルで取りながら、月にアルバイト代を15万稼ぐ、という充実っぷりだった。果たしてこれを「充実」と呼ぶのかは分からないが、自分の楽しい事しかしていなかったので私にとっては「充実」で間違いない。

そのヲタ卒していた1年間で最もよく聴いていたのがRADWIMPSだった。そう、そのへんの大学生たちと同じ様に。一番初めにRADWIMPSの曲を聴いたのは、高校の卒業式の打ち上げだったと覚えている。カラオケで「ふたりごと」を入れた男子が居て、私は「RADWIMPS」という知らないグループ名の知らない曲が始まるのかと、退屈を身構えていた。しかし始まってみると、歌詞が映し出される画面に夢中になるしかなかった。音に合わせて紡がれる言葉の数の多さに圧倒されながら、その言葉たちを全部拾っておかなくては勿体ないと思った。どうしてこんな歌を、どうしてこんな言葉を、誰も今まで教えてくれなかったのだろう。高校最後の日に、私は絶望と希望がブレンドされた気持ちでRADWIMPSを知る事になった。

そこからはどういう流れだったかは覚えていないけれど、あっという間にiTunes再生回数トップリストはRADWIMPSが並ぶ様になった。「ふたりごと」「有心論」「トレモロ」「祈跡」「セツナレンサ」「25コ目の染色体」「遠恋」「me me she」「いいんですか?」「夢番地」「最大公約数」……。2007年にRADWIMPSを知った私は、多少出遅れた事への引け目も手伝いながら、みるみる内に野田洋次郎の世界観に呑み込まれていった。大学の友達も、バイトの仲間も、みんな野田ワールドが好きで、この曲は野田さんがこういう状況だったから出来上がっただの、この曲だけが唯一想像でつくられただの、ソース不明ながらも各々の知識を持ち寄って、野田さんの書く歌詞の話をするのが好きだった。誰もがあの世界観に従順で純粋だった。

一度だけライブも見に行った。幕張メッセの最後列、RADWIMPSの姿は人の頭に隠れてもうほとんど見えないくらいの距離だった。けれどもあれほど執拗に聴いていた曲が、今同じ空間で歌われていて、空気が振動して私の耳に届いているという事だけで酷く嬉しく、もう姿なんて見れなくても良かった。逆に見れない事でよりRADWIMPSが神格化されていく感覚があった。翌日かなり前の方で見ていた友人が、押しつぶされて気を失い救護室に運ばれていたという話を聞いて、私の場所からは想像がつかなかったけれど、同じ空間に確かにあった“狂い”だと思った。

結局、私はその翌年ジャニヲタに戻ってしまったので、RADWIMPSの曲を聴く機会は少なくなってしまったのだが、あの早口で紡がれる言葉の羅列は今でも時折頭の中を横切る事がある。高校生や大学生になったらみんなが傾倒していくように、私も人生の一部にRADWIMPSに傾倒する時期があって良かったなと思っている。

そうして、RADWIMPSの曲が当時の思い出と共に「懐メロ」になりかけていた頃、本屋のタレント本コーナーを覗いていたら、野田洋次郎さんのエッセイがあった。もう最近のRADWIMPSの曲は分からないし、そもそも私は野田さんの歌詞上での言葉しか知らない訳だけれど、音ではなく紙の上に載った野田さんの言葉にはどんな魅力があるのか、興味が止まらなかった。紙の上を滑っていく野田さんの言葉は、想像以上に繊細で優しくて温かくて、私はもっと尖ったものをぶつけられる覚悟でいたので、そんな事を考えていた自分こそが尖っていたのではないかと反省した。全然手の届かない才能の海の中で泳いでいる野田さんの言葉は、心地よく私の身体の中へ落ちていき、感性のお裾分けを貰っているようで嬉しかった。誰かの日記を読めるって楽しい。それが才能ある人の記したものならば尚更楽しい。

久しぶりに「トレモロ」を聴いた。「本当に伝えたい想いだけはうまく伝わらないように出来てた」「『真実とはねそれだけで美しいんだ』と言って」この歌詞が好きだった。好きなもの程上手く描けないと感じた時にこのフレーズが断片的にいつも頭を過ぎる。私なんかが描かなくても美しいという事実があればそれでいいと思う時もあるけれど、「不器用な僕も描き出してみるよ」とまたひとつここに不器用な言葉を継ぎ足している。