それは恋とか愛とかの類ではなくて

紅白ハイが続いてる。水曜日の午後、紅白出場者が発表された。会見の様子をニュースで確認して我が物顔でぽろぽろと涙を流し、それに伴って訪れた世間の反応のビッグウェーブに自ら飲み込まれてみたら、自分が思っていた以上にずっと深く高く気持ちが増幅していることに気付いた。大晦日の国民的番組に5分程度の持ち時間を使ってパフォーマンスする、たったそれだけの事と言われても妙に納得してしまうのに、こんなにも胸が膨らみ続けていくのは、それが「認められた」ということの証明にあたるからかもしれない。何かを犠牲にして努力を続けてきた人が正当に「認められる」ことにめっぽう弱い。もう彼らの姿を見るだけですぐに涙腺が反応する程度には身体の機能が馬鹿になっている。この感情を言葉にして表現することは、もっと奥深くに進んでいく危険行為の事のように思え、人間はある程度自分が発信している言葉に振り回されていると信じている身として、こういう場合は敢えて言葉にしないことを選択してきた。けれども自分の中に次々と生成されていく感情を言葉にせずに秘めていく事もまた、それらを増幅する行為に相違なかった。ならばいっそ、思う存分書き記してみようか、解放してみようか、怖いもの見たさで自分の心の鍵を外して、今文字を並べている。好きだ、好きだ、大好きだ。端的に言い表してみよと言われれば、この13文字の繰り返しになるが、その感情を細分化するともっと濃厚な好意が浮き上がってくるような気もするし、シンプルにこの言葉だけで充分に足りているような気もする。私は常々「何故」そう感じたのか、「何故」好きなのか、ということを語ることを好んできたが、その感情の果てまで来た時この「何故」を語ることは余計な理由付けのようにすら思えてくる。「何故」が先だったか「好き」が先だったか、今は圧倒的に「好き」が先頭を走っていて、「何故」は小さく蹲りながら隅の方に追いやられている。恋をするとキュンと胸が締め付けられるというが、今はもっとギュッと胃のあたりの臓器が搾り取られているようで、体内に恋とか愛とかの類ではない何者かが潜んでいる。火に油を注ぐように、繰り返し彼らの姿を目に焼き付けては、その何者かと闘っている。燃えているのでも、萌えているのでもなく、言いようのない刺激物が身体中を駆け巡っている。今はこの感情の正体に名前は付けない。青春、というものと良く似ているのかもしれない。