誰かを選ぶということは誰かを選ばないということで、やっぱり担降りの時にジャニヲタが帯びる膨大な熱量が私は好きだな / “担降りしました。 - あやなのblog” http://t.co/OQElHancIH
— あやや (@hraom) 2014, 10月 23
先日、Twitterであやなさんという方の担降り記事をツイートしたところ、めちゃくちゃ反響があった。あやなさんの記事はこちら。
そもそも「担降り」とは何ぞやという方の為に説明すると、ジャニヲタはジャニーズのタレントを応援することを「担当する」と言い、その応援する対象が変わることを「担降り」という。「降り」という表現を使っているが、先輩タレントから後輩タレントへ変わる者もいれば、後輩タレントから先輩タレントへ変わる者もあり、後者に対しても基本的に「降り」が使われることが多い。「担昇り」と表現されることもあるが、現時点であまり浸透していないと思われる。どうして「降り」という表現が使われるのか、私個人の見解としては、「担当する」という行為自体が順番に経験値を重ねて「自担」を知っていく作業、階段を昇っていく作業であるが、そこでタレントが変わると、また一段目から改めて別の階段を昇り始めるからではないかと、勝手に解釈している。自分的にはその解釈が一番しっくり来ているのでそういうことにしている。
「担降り」という行為については、一度少年コレクションvol.2という同人誌で掘り下げたことがある。私の担降り履歴書はここで見られるし、2000人から回答を得た担降りアンケートも面白いのでついでに紹介しておく。web上に載せているのは極一部で「担降り」についてもっと深く掘り下げた結果は、同人誌自体に詰め込まれているのだが(※現在通販は終了)、私はこの同人誌の中で「担降り中毒」という文章を書いた。その中から抜粋して「私にとって担降りとは何か」ということを、このブログにもせっかくなので残しておこうと思う。
「担降り中毒」あやや
(前略)
ジャニーズ事務所にはデビュー組だけで70人以上が在籍している。そこにまだ初ステージを踏んだばかりのジャニーズJr.等も含めるともはやファンが把握し切れない程の人数がいる。それだけの選択肢の中からジャニヲタは「自担」を決めているのである。1人を選択するということは残りの何百人を選択しないということであり、私は常にその何百人に対して後悔の念がある。「あの子を主人公にした物語もきっと面白いだろう」溢れんばかりの名作が揃う本屋の中で後ろ髪引かれながら、たった一冊だけ本を購入して帰る、そんな感じだ。通常の完結された物語と違うのは、その購入した一冊の本を、時間をかけて読み込んでいる内に、購入しなかった本はどんどんページが更新されていくことだ。気づいた時にはとんでもない厚さになっている。
「担当する」ということはパズルに取り組むようなものだとも思っている。何の予備知識もなく担降りをした時はフレームにまだ何も乗っていない真っ新な状態だ。そこから彼らの過去を学び現在を感じ未来を想像していく。パズルのピースをひとつひとつ拾い繋げる作業はとても楽しい。私の知らなかったことがこんなにもあったのかと世界が広がっていく様は快感でもある。だから私は新規になることへの恐怖心があまりない。時折新参者だからという理由で周りの目が変わることもあるが、それ以外は最高に充実した時間が流れる。毎日新しい情報が私の脳内に入荷され、既に繋がり始めていたピースと交わり広がっていく。何が何だか掴めていなかった全体像がやがて露になる。そしておおよその完成形が見えた時途端に切なくなる。人の人生が終わらない限り、人を観察することにも終わりなどなく、この一分一秒の間にも“自担”は息をして歳を重ね成長していくが、私たちに提供されているのはその人生の一部分だけである。おおよその全体像が見えて来たらあとはとても緩やかに残りのピースを拾っていくことになる。パズルに取り組み始めた頃とのスピードの緩急差に寂しさを感じずにはいられない。そんな時に「新しいパズルを始めてみないか、今度のパズルはもっとピースが多いから難しいぞ」と提案されたら、その難易度の高いパズルに挑戦してみたくなる。これが昨今の私の“担降り”の仕組みである。
(中略)
担降りは楽しい。あの時、本棚の中から選ばなかった本がこんなに面白いだなんて知らなかった、もっと早く気づくべきだった、という感情は恐らく誰に降りても感じることが出来る気がしている。アイドルの時間が限られているように、我々もアイドルファンとして生きる時間は限られている。その中で私はあといくつの素敵な物語に出会えるのだろうか、そう考えるともっと回転率を上げて担降りをしなければならないのではという焦燥感すら感じる。もっとジャニーズを見たい、もっとジャニーズを知りたい。底知れぬ私の欲張り癖に、そろそろ読者の皆様が呆れ顔でこの文章を読んでいるのではないかと思うので、これにて担降り中毒者の弁解は終了とする。
(少年コレクションvol.2「担降り」より)
1年半前に書いた文章だが、今も私にとって「担降り」とはこんな感じで相違ない。「担降り」は誰かを手放して新しい誰かを選び取るという意味で刹那的に捉えられることも多いが、その一方で当事者は新しい航海に出てしまったという冒険心もくすぐられていると思っている。他所から見たら異常で馬鹿馬鹿しいであろうこの儀式が、私はたまらなく好きで大好きで中毒化している。
何故突然この人はこんな記事を書き始めたのだろうか、こんな盛大な前振りからの担降り宣言をするのではないか、とここまで読んで思った方もいるかもしれないが、今日は特別担降り宣言をするつもりでこれを書いた訳ではない。残念だったな。初心を思い出す為に過去の自分の言葉を引っ張り出して来たまでである。自担のお誕生日にね。