「みっくん」と呼ばせてくれ

口内炎が出来た。頬の裏側、正面から5番目か6番目の歯が不意に炎症部分に当たって痛みを感じる。「い」と発音する時にズキンと震える。口内炎とはあまり縁のない人生を送って来たのに、今回のは特別大きい。「みっくん」と北山宏光さんの愛称を発音する時も勿論痛む。「み」が曲者だ。けれども痛いと分かっておきながらもう一度先程の痛みを体感したくなって、「みっくん」と二度目の発音を試みる。やっぱり痛いと分かってちょっと面白くなってくる。完治への近道は刺激しないことだということは分かっているつもりなのに、嬉しくなってまた「みっくん」と発音してみる。やっぱり痛い。

みっくんは可愛い。可愛いという言葉を辞書で調べると「小さいもの、弱いものなどに心引かれる気持ちをいだくさま。 愛情をもって大事にしてやりたい気持ちを覚えるさま。愛すべきである。」と出てくるが、みっくんに相応しい「可愛い」はそんなものではない。本来の「可愛い」の遥か向こう側、人類がまだみっくんの可愛さを上手く表現する言葉を作り出せていない。みっくんだけがその特別な「可愛い」の括りに入るということに気づいていない人が多いのだ。みっくんは男性だ。男性に対する「可愛い」は女性に向けられるそれとは違う。男の要素を備えていることが前提にあり、その中にふと垣間見えた弱さや脆さや危うさを「可愛い」と表現する。しかしみっくんの場合は違う。そもそも基本型が「可愛い」のだ。それは何故かと言えば、みっくんが男性的でもなく中性的でもなく女性的な可憐さを纏っているからだ。みっくんを見る時、私は女子アイドルを見る時と同じ目を向けている。ショートカットに悪戯を仕掛けにやってきそうな狐顔、丸い輪郭に小さな口は、ちょっとボーイッシュな女の子に相違ない。みっくんは訳あって男性アイドルグループの中に男装して混じることになってしまった女の子なんだ。いつかみっくんが女の子だったことがバレてしまってグループから脱退させられるのではないかと、冷や冷やしながらみっくんを見つめている。いつか目の前からパッと姿を消してしまうのではないかという儚さまで持っている。

私はみっくんと誕生日が同じだ。誕生日が同じ芸能人の話題になった時、私はみっくんだと答えることが出来ることを誇りに思う。同じ日に一緒に年を取り、私とみっくんの年齢差は1日も縮まらなければ離れることもない。ずっと同じ年の差を保ち続けている。誕生日占いをした場合、相性が良いかどうかは別として、私とみっくんは限りなく同じ運命に分類されるのだ。良い運も悪い運もみんなみっくんと同じ。しかしみっくんはどこで賢者の石を手に入れたのか、誕生日を迎えても一向に年をとった気配がない。今年で29歳になる人ならば顔に色んな線が出てきてもおかしくないはずだが、みっくんの肌は高校生と同じぐらいピチピチだ。きっと毎朝洗顔をしても肌が水を弾いてしまっているだろう。9月17日を迎える度に、私は着々とおばさんになっていく。そして3年先を歩んでいるはずのみっくんは何故かその日を迎える度に若返っていく。みっくんの周りだけ時間が逆戻りしている。そろそろ今年あたり私がみっくんの若さを追い越してしまって、後は私だけがおばさんになってやがてお婆さんになっていくのだと思う。私がお婆さんになってもみっくんはテレビで今と同じ風貌でローラースケートを履いて滑っているかもしれない。みっくんは賢者の石を手に入れたのだ、あと5年もすればニュースになるだろう。そうなれば「北山宏光と賢者の石」という映画を公開して、みっくんにはガッポリ稼いで欲しい。

「みっくん、」また口内炎がズキンと痛む。同時に胸の方もキュルキュルと音を立てる。みっくんは今年のAKB48選抜総選挙に出馬しないのだろうか。私は「ラブラドール・レトリバー」を踊るみっくんが見たいし、前田敦子大島優子もいなくなったAKB48の新時代を築くのはみっくんでいいのではないかと思う。\超絶可愛い!みっくん!/というコールはもう今すぐにでも叫びたい。「可愛い」に「超絶」がついたところでまだみっくんの可愛さを語るには足りていないけれど。でも女の子だということがバレるまでみっくんは今のグループ活動を続けるだろうし、きっとバレないように今後も器用に生きていくのだろう。私はこれからもみっくんが女の子だということに気づいていない振りをしながら、みっくんの可愛さに見合う言葉探しを続ける。みっくんの若さも可愛さも永遠に生き続けてくれ。