映画『天気の子』(※ネタバレ有)

先週の土日、東京に行って来た。東京旅行はもう何度も経験しているが、アイドル現場に行くためでもなく出張のためでもなく、ただ人に会いにいくための東京旅行は、人生で初めてだった。昨年末に就航したジェットスター高知ー成田便で向かった東京は、降り立つところも目的も普段とは違っているからか、いつもより新鮮に感じられた。東京で会う相手は、高校の友人でもなく大学の友人でもなかった。先月1ヶ月間仕事の都合で東京から高知に来ていた相手と出会い、1ヶ月の間私が高知の様々な観光スポットを案内していたので、今度は私が東京にお邪魔して東京の観光スポットを案内してもらう約束になっていた。

真夏の東京の暑さは高知の暑さとは少し違っていて、高知が「焼く」ならば東京は「蒸す」だと思う。熱中症にならないようできるだけ屋内で過ごしたかったので、私たちはスカイツリーに登った。昼間のスカイツリーは初めてだ。からっと晴れた東京の街を一望した時の感動を、その人は「『天気の子』みたい」と形容した。私は『天気の子』を見ていなかったのでその意味がよく分からなかった。「『天気の子』見てみて欲しい」と相手に言われるがままに、高知に帰って来た私は映画館に足を運んだのだった。

小説 天気の子 (角川文庫)

小説 天気の子 (角川文庫)

地方住みの私は、帆高のことを他人事とは思えなかった。帆高の目に飛び込んでくる東京の街は、私の大好きな東京の街そのもので、一週間前に見た景色たちが映画とリンクしていく感覚は、不思議で気持ちが良かった。その一方で私は雨が大の苦手だ。大雨が続く梅雨時期は憂鬱になる。その雨が私の大好きな東京の街を支配していることが、冒頭結構しんどかった。私の知っている東京はいつも凛としていて安定している。いつだって大丈夫だと思っていたものが揺らいでしまっている姿を設定として受け入れるのに、結構時間がかかってしまった。

物語の中でキーアイテムになる「拳銃」。陽菜の天気を100%晴れにすることができるファンタジックな力の話と、自分たちを守るものとして使う拳銃の現実感が、マーブルのように混じり合い、幻想と現実の境目を行ったり来たりしている感覚があった。大多数の犠牲の上、および罪を犯した上にある、二人の愛の純度について、考えてしまった。誰も犠牲にしない罪も犯さない愛の方が純度が高いのか、はたまた誰かを犠牲にし罪を犯してでも貫く愛の方が純度が高いのか。陽菜に会うために障害を乗り越えさせる方法はいくらでもあっただろうに、帆高にわざわざ「拳銃」というアイテムを拾わせ警察を敵にさせた意味を考え込んでしまった。

また須賀が最後に帆高に伝えた「世界は元々狂っている」は、世界は自分たちが狂わせたと思っている帆高の罪悪感を和らげる意味で言ったのもあるだろうけれど、同時に「世界はお前たち如きでは変わらない」と否定しているように聞こえて、それは何だか切なかった。子どもたちは自分が主人公だと思って生きているこの世界を、大人が別に君たちが主人公ではなく、世界は世界自身が回しているんだと諭すのは格好悪い。みんな生きているならば、微力ながらも世界に影響を与えている。と思いたい。特に陽菜と帆高が世界に与えた影響は紛れもなく大きい。


スカイツリーに登った時、晴れ晴れとした空の下で、光の反射でまるでスポットライトが当たっているかのように明るく見える場所があった。そこを見て「『天気の子』みたい」とあの人が形容していた理由が今なら分かる。きっとその人の頭の中ではそこに陽菜がいて、太陽に愛され光を集めているように見えたのだろうなと思う。『天気の子』を見たら、もう一度先週の東京旅行をやり直したくなった。